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国内最大の経済団体エコノミー・スイス 150年越しのジレンマ

スイスはアメリカと同様、ヨーロッパ以外の市場をいち早く獲得した The Print Collector / Heritage-images

欧州連合(EU)との枠組み条約交渉の決裂は、スイス最大の経済団体エコノミー・スイスにとって大きな痛手となった。過去150年、欧州市場との自由貿易が揺れるたびに同団体は内部分裂を繰り返してきた。

このコンテンツは 2021/07/31 08:30
Béatrice Koncilja-Sartorius(本文)&Ester Unterfinger(写真編集)

エコノミー・スイスを再び激震が襲った。スイス政府が5月末にEUとの交渉打ち切りを発表したのを受け、EU諸国との貿易条件が不安定になるとの懸念が団体内を駆け巡った。スイスにとってEUは他の国々から群を抜いて重要な貿易相手だからだ。

「中世以来、近隣の大国とスイス企業に対する差別が問題となってきた」。バーゼル大学で主に南北貿易を研究する経済史家のアンドレア・フラン他のサイトへ氏はこう話す。

エコノミー・スイスの設立150周年に寄せて、フラン氏は著作「Im Austausch mit der Welt. Schweizer Unternehmen im 19. und 20. Jahrhundert(仮訳:世界との交流―19~20世紀のスイス企業)他のサイトへ」を刊行した。

スイス最大・最古の経済団体であるエコノミー・スイスは1870年、「近隣国やその他世界の市場に参入し自由貿易を実現する」ことを目的に設立された。

障壁と密輸

欧州の真ん中に位置するスイスにとって、欧州近隣国との自由貿易は古くから生命線だった。地域ごとに商人の組合が誕生し、自由貿易の守護神となった。中世が終わりを迎えた後は、国内最古のザンクトガレン・アッペンツェル商工会議所が重要な役割を果たしていた。同商工会議所は、ナポレオンによる1803~13年の大陸封鎖に対抗する最前線にも立った。貿易商人たちが英国からの密輸に勤しむ一方、スイスの州代表者会議はフランスをなだめようと尽力した。

この禁輸措置の経験は、スイスの貿易史に大きな影響を与えた。販路を奪われたスイスの商人は、アメリカを始めとして欧州以外に市場を広げていった。こうしてスイスの貿易商人たちは経済のグローバル化を遂げ、現在に繋がっている。

34年の関税同盟に体現されるように、ウィーン条約を機に保護主義が生まれ、スイスの貿易商人の間に近隣諸国に対する不信感が強まった。フラン氏は「150年前から、予測できない欧州の強権にできるだけ依存しなくて済むよう、他の世界に繋がるチャネルを開いておくことが課題だった」と語る。

グローバル企業と国内政治

1848年に新しい連邦国家に生まれ変わったスイスでは、各州の商工会議所が経済や対外貿易を担った。

グラールス州で繊維企業を営んだペーター・イェニー(1824~79年)は、世界とつながった工業家の見本のような存在だ。フィリピンに定住しながら、スイス国内ではリベラルな支配者層のエリートとして活躍。できたばかりの連邦国家では無制限の権力を振るった。

それまでは、個々の州と地域の貿易団体がそれぞれ取引をしているに過ぎなかった。69年、イェニーの呼びかけで13州の商工会議所が初めて一堂に会した。スイス西部の州は連邦政府の代表と直接交渉を望み、全国的な団体の設立に当初は懐疑的だった。

1870年3月12日、スイス貿易・産業協会(SHIV)の設立総会が開かれた。かつての盟約者団会議を手本に、各州商工会議所が2年ずつ交代で議長を務めることとなった。

やがて議長州は「代表邦(Vorort)」と呼ばれるようになり、20世紀半ばまでSHIVの代名詞として使われた。最初の議長を務めたのはベルン商工会議所だった。78年以降は代表邦には常設の事務局が設けられた。

儲かる戦争経済

第一次世界大戦が終わると輸出が急増し、経済界も農家もスイスの経済政策について議論するようになった。特にSHIVの会長を務めたハンス・ズルツァー(1876~1959年)とハインリッヒ・ホムベルガー(1896~1985年)は第二次世界大戦下、戦争経済の舵を取るという重責を負った。

戦争の真っただ中、SHIVは両方の敵対国と関係を築くことに成功した。「大臣」と呼ばれたズルツァーは国外で連合国と会談した。「8番目の連邦閣僚」と称されたホムベルガーは枢軸国との交渉を担った。

「第8の連邦閣僚」と呼ばれたSHIVのハインリッヒ・ホムベルガー会長 ETH

国家による経済への介入が強まる中、新自由主義的な動きが強まった。1942年、スイス経済振興協会が設立された。この新しい経済団体とSHIVが徐々に結束を深め、2000年にエコノミー・スイスへと生まれ変わった。

欧州の要塞

戦後、国際通貨基金(IMF)や世界銀行、関税・貿易に関する一般協定(GATT、現世界貿易機関/WTO)、欧州ブロックといった国家間枠組みが出現し、SHIVは大きなジレンマを抱えた。「問題は常に、自由貿易を欧州レベルで目指すか、世界レベルで目指すかということだった。欧州経済圏への加盟はスイス企業にとっては非欧州国家への差別になりかねなかった。SHIV内も、各種協定に対する姿勢は一枚岩ではなかった」(フラン氏)

「欧州の要塞」に直面したSHIVは、代わりに1960年に設立された欧州自由貿易連合(EFTA)に接近しようとした。SHIVは、欧州経済領域(EEA)にはさほど否定的ではなかったが、欧州共同体(EC)は明白に拒絶した。

EU本部は大陸封鎖時代のフランスのように、「スイス企業に対して差別以外の何物も期待できず、一切容赦しない強力な隣国」だった――フラン氏は著書でこう記した。

SHIVは1992年の国民投票で、EEA加盟への支持を取り付けようとがむしゃらにキャンペーン活動を行った。それは小さな悪だとみなされていたからだ。フラン氏は「スイスはそれまでと同様、『欧州か世界か』という選択を迫られた」と話す。「そして世界を選んだ」

(独語からの翻訳・ムートゥ朋子)

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